David Bowie

今更ながらデビッド・ボウィの話を。

今から四半世紀ほど前のこと、当時の私は20代の前半だった。高校生の頃からロックやポップスといったジャンルの音楽にどっぷりはまっていた。学校を卒業しそれなりの収入を得るようになるとカネ回りもよくなり週に1枚程度のペースでCDを買い、興味のあるミュージシャンが来日するとそのライブを見に行った。それも可能な限り良い席を選んで。そんな日常の中で共通の趣味を持つ者達とも交流を持つようになった。CDの貸借りはもちろんLIVEチケットの手配などを融通しあうような仲間だ。

当時、大阪のハードロックカフェにはデビッドボウイのギターが飾られていた。今でもあるのかどうかは知らないが当時は間違いなくあった。私もこの目で見たのだから。そして私のLIVE友達は 『ねあんにはあのギターを譲り受ける権利がある。だってねあん程のボウィファンは見たことがない。おそらく日本一のデビッド・ボウィファンだ』と友達に言われていた。私としてはそれほどボウィが好きという自覚もなく、数多くいる好きなミュージシャンの1人という認識だったが、端から見るとそうでは無かったようだ。ちなみに友達にそう言われて、そのときの状況を考えてみると、友人のいうことはあながち間違いではなかったように思う。

当時のデビッド・ボウィはというと80’Sの音楽ブーム時にレッツダンスをヒットさせたお洒落でカッコイイミュージシャンという程度の認識しかなく、その後たいしたヒット曲もなかった。おそらく今でも多くの人はデビッド・ボウイの代表作は『レッツ・ダンス』だと思っているのではないだろうか。

当時の私は、それほど好きではないと言いながらもボウィのオリジナルアルバムは全部持っていたし、曲を聴くアーティスト別の回数としてはジョン・レノンローリングストーンズに次いで3番目くらいによく聞いていた。ただ、どうにもデビッド・ボウィは何かが違うのだった。

ロックは魂の叫びだ! などというような事を言うつもりはないが、それでも音楽というものは芸術の1つのジャンルであってそこにはやはりアーティストの魂や心がこもっているものである。ところがどういうワケかボウィの音楽からはそういったものが一切伝わってこない。本物のドラムを使わずリズムマシーンによる打ち込み音を使うということもあるが、それでもボウイ自身の魂が感じられずにいた。故によく聴く音楽ではあるが「好きなミュージシャン」と言えなかった。

今回デビッド・ボウイが死んだことによって多くの人が追悼の意をあらわしている。ニュースやワイドショー、はては個人ブログでまで多く取り上げられる。しかし本当にみんなデビッド・ボウイをそれほど聴いていたのだろうか。私からしてみればボウイは「キワモノ」だと思っている。決して格好良くないし万人受けするような音楽でもない、ファッションも然りだ。ただ、彼は間違いなく天才である。それだけは否定のしようがない。そして天才であるが故に「キワモノ」であり続け「最も好きなミュージシャン」とはならなかったのだと思う。

彼ほどの才能を持つ者にとってヒット曲を作り出すのは簡単なことだったのではないだろうか。彼のアルバムには常にコンセプトがあり、まるで役者がその人物を演じるかのような曲作りをした。グラムロック時代には妖艶で中性的な、80年代には華やかでファッショナブルな、アルバム「アウトサイド」ではサイコなカニバリズムを完璧に演じきっている。どれもが本物の彼であるが、彼が演じているだけで本当のデビッド・ボウイというものは決して見ることが出来なかったように思う。

そういった意味で、私にとってデビッドボウイというのは本当にこの世に存在したのかどうか実感が持てないし、同じ時代を共有したとうい感覚もまったくない。




グラムロック時代



80'S




The Heart's Filthy Lesson



個人的に好きな曲というとこのあたりかな。。


David Bowie - Lady Stardust



David Bowie - Life On Mars